ジョージ・オーウェル著 1984年  ~現在に迫りつつある管理社会~

1984年が、現在に迫りつつある4つの理由

 
ジョージ・オーウェルの1984年を読んだ。
区分したら、SF小説に入るのだろうか。しかし将来本当にこのように世界になるかもしれないと感じてくる所が恐ろしい。 完全な管理社会。それは人間としての要求を殺され、各自の思考さえも制限され、みんな同じような行動する究極の全体主義であった。
 
それでもみんな本当の幸せとは何かを知らないため、この世界に満足している。誰も他の世界、他の考え方があることを疑わない。もし疑えば、たちまち世界から抹殺されることになるのだ。
 
テレスクリーンといういつでも監視できる機械が町中に置かれ、一日中流れてくるテレビからの情報により、世論が形成され、党に反対する意見を出すことは犯罪になる。
 
一部の上層部が権力を掌握し、その他大勢の人間を、彼らに都合の良いように教育し、思考するように管理し、生きる屍として扱う。
怖いのは、支配されている当の本人たちは、その生き方になんら疑問を抱いていないことだ。

 

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以下に、どのような箇所で全体主義、管理社会が迫っているかの危険を書いた。
 
 
1、増え続ける監視カメラ
 
現在、街の至る所に監視カメラが配置されている。都会ならばお店、駅、通り、公共施設など、逆に監視カメラがないところを探すのが難しいくらいだ。イギリスでは、600万台の監視カメラがあるとされ、都会の市民が1日にカメラで撮影される回数は平均300回だという。以前なら大量のデータがあってもそれを人の手ですべて確認するのは困難だった。しかしAIの発達により個人の顔を認識することが可能になり、解析や追跡も簡単になってしまった。安全管理のためという名目上で、どんどん数を増す監視カメラの設置は、どこにいても監視されている、プライバシーのない社会へと近づいてきている。
 
2、SNSによる情報発信
 
またSNSが普及し、個人が発信者となった今、そのデータから、その人がどんな人物で、どこに住んでいて、今日一日何をしたかも知ることができる。多くの人はTwitterFacebook、インスタグラム、ブロブ、ラインなどで飛び交う情報は、自分の対象としたユーザーだけに届く、いわば"すぐに届くはがき”のような感覚で送っているのかもしれない。個人情が報やかなりプライベートなことも危機感なしに発信する。しかしその情報は確実にデータとして保存されている。もし悪用されることになったら、僕たちの情報は手にとるように見られるだろう。実際、2018年にFacebookでユーザーの情報漏れが起きた。また投稿した写真から場所を特定される被害も相次いでいる。プライバシーを含む膨大な情報を、企業、国、そしてAIが悪用したらどうなるのだろうか。
 
 
3、Iotによるあらゆるもののインターネット化
 
Iotが進み、あらゆるものにインターネットが接続するようになった。とても便利になった反面、今までインターネットとは無縁だったものが、セキュリティ的に危険に面する可能性が生まれたと言えるかもしれない。自動車がインターネットで繋がったら、時に自分の操作以外の力で動くことがあるのかもしれない。家電製品までもがハッキングされたら逃げ場所がない。
 
電子マネー、カードにより、効率的に決済や処理ができるようになった。JRの改札は切符を買わなくても、SuicaIcocaで通れるようになり、最近はスマホ決済ができるお店もあるらしい。現金を持ち歩かない分安全になったという人もいるが、その反面、セキュリティに不備があると知らない間にお金を取られてしまうし、どこで何を買ったか、お金の流れが第三者にも手に取るように把握される。Amazonなどは膨大な顧客データを持っていて過去の購買データ、閲覧ページから、その人が買いそうなものを選択してページ内に表示する。
JRに残るデータからどこから乗ったかなど交通の面でも記録は残ってしまう。飛行機も最近はネット予約などでデータに残る。スマホなどに内蔵されているGPSが、もし自分たちの設定と関係なく起動するならば、どこにいるかも丸わかりだ。もしあらゆるデータを集めたら、個人のことはまるで365日、24時間ずっと監視されているかのように把握されてしまうだろう。
 
 
4、他人に合わす社会 空気を読みすぎて自分を失う日本
 
他の人と違う意見を持ちにくくなったと思う。特殊な考えや意見はネット上で還付なきまでに叩かれ、数の暴力に晒される。少しでも奇抜なことをすれば批判され、撤回に追い込まれる。みんな新しい考えを持つことより、人と合わせることを重要視し始める。
メディアの力はなおも強く、特に情報社会の現代では、多数の意見がそのまま常識・世論となってしまう。また、若い人たちはみんな同じような生活スタイルで、似たような考えになっている傾向が強い気がする。全体主義的な流れは、少しずつ浸透していっているのかもしれない。
 
 
 
 
 
1984年が発行された1949年。それはまだSF小説の域であった。しかし2018年現在、小説で書かれている技術は、現実世界でほとんどが実現できるものだろう。
 
我々は自由がなくなるときは、それとわかる変化、つまり物理的に自由を制限され、無理やり抑え込まれると思っている。しかし本当に怖いのは、自分たちが知らない間、意識していないところで、自由がなくなっていることだ。比較することができないので、誰もがそれを当たり前だと思い込んでしまっているのだ。
 
小説では、一部の権力を掌握した人たちによって管理社会が敷かれていた。しかしAIが発達したいま、そこの席に座るのは、人間ではなく、シンギュラリティ後にはるかに人間を超えたAIかもしれない。